健康情報: 7月 2010

2010年7月14日水曜日

康治本傷寒論 第六十五条 傷寒,脈滑,厥者,裏有熱,白虎湯主之。

『康治本傷寒論の研究』 
傷寒,脈滑,厥者,裏有熱,白虎湯主之。

  [訳] 傷寒、脈滑、厥者、裏有熱、白虎湯、主之。


 この条文は第四一条から表についての記述を除いたものに等しい。ただこの条文の厥は手足厥冷のことで、これだけが第四一条にない。
 即ち陽明病の手足厥冷は裏熱によって末端の血行が悪くなったのだから、これを熱厥という。これに対して厥陰病の手足厥逆は裏寒によって生じたものだから寒厥といい、両者の原因は正反対であるが症状が類似している。また裏熱によって生じた口渇が、厥陰病における外熱、上熱下寒に類似している。そこで厥陰病の状態を明確に認識させるためにこの条文があると見ることができる。
 宋板ではこの条文は厥陰病の中間に位置している。これ末尾に置き、第四一条の裏有寒を裏有熱に置きかえたところは、康治本に示された哲学を反映したものである。

 以上で康治本傷寒論の本文はおわる。
 陰病篇は最初に太陰病(二条)、次に少陰病(一二条)、最後に厥陰病(三条)という順序になっている。太陰病の部分では悪寒にも熱感にもふれていないが、少陰病の部分は心中煩という熱症状ではじまり、最後は厥陰病の裏有熱の句で結んでおり、その中間において熱の症状が縦横に活動するという形をとっている。
 ちょうど陽病篇が悪寒からはじまり、中間において熱の症状が縦横に活動し、最後は背微悪寒の句で結んたのとは正反対になっている。これは陰陽がつきることなく循環運動を続けるという哲学を表明したものである。
 このように傷寒論は陰陽説によって構成されていると言うと、傷寒論は易の理論によって解釈すべきであるという説に賛同しているように見えるかもしれないがそうではなく、傷寒論も易も陰陽説の論理で貫徹されていると言っているだけである。



 康治本の本文の最後に次の四行が記されている。

○二四八 六十四 五十
 五十   四十五 五十五○
 唐貞元乙酉歳写之
 康治二年癸亥九月書写之 沙門了純

 この一行目、二行目の丸と数字は何を意味しているのか全くわからない。永源寺本では二行目の一番上の「五十」はない。
 三行目の貞元乙酉歳は貞元二一年で西暦八○五年にあたる。
 四行目の康治二年は西暦一一四三年で、平安期の末期にあたる。癸亥は原文は亥の一字になっている。沙門は広辞苑に「梵語 sramana 勤息即ち善を勧め悪を息むる人の意。出家して仏門に入り道を修める人。僧侶。…」とある。沙門那の略である。了純という名の僧侶については何も手がかりがない。
 読みは次のようになる。「唐の貞元乙酉の歳、これを写す。康治二年癸亥九月、これを書き写す、沙門了純」

『傷寒論再発掘』
65 傷寒、脈滑 厥者 裏有熱 白虎湯主之。
   (しょうかん みゃくかつにして けっするもの、りにねつあり、びゃっことうこれをつかさどる。)
   (傷寒で、脈が滑であるのに、手足が厥冷しているようなものは、裏に熱があるからである。このようなものは、白虎湯がこれを改善するのに最適である。)


 この条文も前条と同じように、治療を間違えないようにとの配慮から、ここに書かれた条文です。すなわち、厥陰病の状態はだいたい末期の病態ですから、定義条文の中では直接に触れていなくても、血液の循環不全を起こしてきて、病人の手足は冷たくなってきているものです。しかし、手足が冷たくなっている状態がすべて末期の病態とは限りません。ここの条文にでているように、体内に熱があって、むしろ、熱がこもりすぎて、その為に反射的に、体表面が冷たくなってしまうこともあるのでしょう。そして、その時は脈が「滑」であって、白虎湯で改善されるようなことが実際に体験されていたのでしょう。
 それだからこそ、「脈が滑であって厥する者は白虎湯が最適である。」というような意味の条文が出来たのだと思われます。伝来の条文では、C-7:脈滑厥者 石膏知母甘草粳米湯主之(第15章)の如くであったと思われます。
「裏有熱」とい句は「原始傷寒論」を著作した人が自分の考えをここに挿入したわけです。治療において間違いがないように、敢えて「脈滑 厥者」の原因を明確に述べ、厥陰病とは違うのであることを強く印象づけようとしているのでしょう。「者」という字の下に「裏有熱」という句が来ているのは、そういう説明の気持ちを十分に表現しているように思われます。
 「一般の傷寒論」でもこの条文は、厥陰病篇に残されています。「厥」という状態なので、他の場所には持っていけなかったのかも知れません。
 以上で、「康治本傷寒論」の本文の説明は一応、終了することになります。ただ、本文の最後に、丸と数字が出ており、次に、これを書き写した年月日が出ています。

     ○二四八 六十四 五十
      五十   四十五 五十五○
     唐貞元乙酉歳写之
     康治二年亥九月書写之 沙門了純
     (とうのていげん、いつゆうのとしこれをうつす。こうじにねんがいくがつこれをかきうつす、しゃもんりょうじゅん。)

 貞元乙酉歳は貞元二一年で西暦八○五年にあたり、康治二年は西暦一一四三年にあたります。沙門は僧侶のこと、了純はその僧侶の名前です。どんな人かは全くわかりません。この奥書きから、この原本は、西暦八○五年に比叡山を開かれた伝教大師(最澄)を初めとした僧侶の一行が、遣唐使と共に唐に渡った時に書き写して、日本に持ち帰ってきたものを、康治二年(西暦一一四三年、平安末期)に了純という僧侶が再び書き写したものであると推定されているわけです。
 なお、この数字の謎についてはまだ完全に解明されてはいませんが、第一行目の謎については、その一つの解決案を『漢方の臨床』第32巻第4号36頁に岡本洋明君が提出しています。それについては筆者もだいたい賛成なので、同じ方向で第二行目の方の数字の謎を解明にとり組んでみまして、一つの解決案が浮かびました。その詳細については『漢方の臨床』第37巻第5号33頁に報告しておきましたので参照して下さい。ここでは簡単に結論だけを述べておきます。まず、岡本洋明君の解決案の要点を述べておきますと、「二四八」は「金匱要略」の薬方数「約二七七」から「貞元本」の薬方のうち、「金匱要略」にもある薬方数「二十五」を引いた数「約二五二」に相当するものであり、「六十四」は「宋板傷寒論」の薬方数「一一四」から「貞元本」の薬方のうち、「宋板傷寒論」にもある薬方数「五十」を引くと得られるものであり、最後の「五十」は「貞元本」の薬方数である、ということです。すなわち、「貞元本(康治本傷寒論と同じであるが、もっと原本に近いと思われるもの)」と「金匱要略」と「宋板傷寒論」のそれぞれの薬方数を比べた結果の産物である、ということになります。
 第二行目の数字を筆者は、条文の数であると推定しました。ただし、初めの「五十」は少し特殊な書き方をしていますので、条文の数ではなく、「五十の薬方を持っている書物」すなわち、この「康治本傷寒論」のことを意味していると推定されます。この「康治本傷寒論」には、条文の数が「六十五」ありますが、そのうち、特殊なものが「四十五」と「五十五」あるということを意味しているのではないかというわけです。すなわち、「発汗若下之後……」や「発汗……」という条文は「八条」ありますが、「服桂枝湯……」という条文が二条ありますので、これらを「六十五」から引けば、「五十五条」が得られます。更に、「太陽病発汗……」や「太陽病下之……」や「傷寒発汗……」や「傷寒汗出……」や「傷寒下後……」や「太陽病反二三下之……」や「傷寒中風反二三下之後……」などの条文が「十条」ありますので、これを「五十五条」から引けば「四十五条」が得られるのです。要するに、「発汗」や「瀉下」の処置を加えたあとの「変証」に対する改善策についての条文の数と関い関連があったのです。但しこの場合、第11条は、特殊な条文ですので、意識的に除かれたかあるいは無意識的に除かれたのではないかと推定されます。すべて、あまり本質的な事ではないので、どうでもいい事ではありますが、「謎」として残しておくのも癪ですので、一応、解決案に触れておく次第です。



『康治本傷寒論解説』
第65条
【原文】  「傷寒,脈滑,厥者,裏有熱,白虎湯主之.」

【和 訓】 傷寒,脉滑にして,厥する者は,白虎湯主之湯これを主る.

【訳文】  発病して,少陽の傷寒(①寒熱脉証 弦 ②寒熱証 往来寒熱 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 小便不利)となって,四肢厥冷する場合は,白虎湯がこれを治す.

【解説】 本条は,頗る厥陰の証に似ているが、この場合は大裏すなわち半表半裏(胸廓部位)に熱があるため少陽病位の方剤である白虎湯を持ち出し,寒証と熱証の極みを論じて本編を結んでいます.

証構成
 範疇 胸熱緊病(少陽傷寒)
①寒熱脉証  弦
②寒熱証  往来寒熱
③緩緊脉証 緊
④緩緊証  小便不利
⑤特異症候
 イ四肢厥逆

第63~65条までの総括
 第63条で厥陰病の定義をしています.そして第64条で少陽病位の「心煩、胸中窒」と厥陰病位の「心中疼痛」の違いを述べています.第65条で熱証の極に用いる白虎湯と厥陰病の証が似通っているので,その別を最終条で述べています.



『康治本傷寒論要略』
65条 白虎湯

「傷寒脉滑厥者裏有白虎湯主之」
「傷寒、脈滑にして、厥する者、裏に熱あり、白虎湯、これを主る。」

 64条と同じく陽病であるが、厥陰病と似た症状があるので、それと厳密に区別する必要があることを読者に知らせるために置かれた条文と理解する。

 裏に熱ありは、41条で示したように腎に熱邪があること。
 腎の熱邪→口渇したり血流が悪くなつて手足が悪くなって手足が冷える→熱厥となる。


 厥陰病の手足厥逆と熱厥は似ているから、混同しないようにとの配慮と考える。

コメント
『康治本傷寒論解説』の和訓で、裏有熱が訓じられていない。





康治本傷寒 論の条文(全文)
 

2010年7月11日日曜日

康治本傷寒論 第六十四条 発汗,若下之後,煩熱,胸中窒者,梔子豉湯主之。 

『康治本傷寒論の研究』
発汗、若下之後、煩熱、胸中窒者、梔子豉湯、主之。

 [訳] 汗を発し、若しくはこれを下して後、煩熱し、胸中塞がる者は、梔子豉湯、これを主る。


 という字のあとは、それまでとすっかり状態が変っていることを示している。そこで新しい症状について考察してみると、これは少陽温病で、この症状が第六三条の気上撞心、心中疼熱に類似しているので、厥陰病との区別を認識させるためにこの位置においた条文と見ることができる。
 煩熱とは身熱の状態の甚だしいこと。『解説』二五二頁では「煩して熱をなし」と解釈しているが、煩躁、煩渇と同じように、この煩は甚だしい意味にとった方がよい。胸中窒は胸がつまること。
 この状態は第二四条の第1段よりは重く、第2段よりは軽い状態であるから、同じように梔子豉湯で治すことができる。
 宋板では太陽病中篇にこの条文がある。


『傷寒論再発掘』
64 発汗、若下之後 煩熱 胸中窒者 梔子豉湯主之。
   (はっかん、もしくはこれをくだしてのち、はんねつ きょうちゅうふさがるもの、しししとうこれをつかさどる。)
   (発汗したり或いは瀉下したりしたあと、甚だしい熱感が生じ、胸がつまって苦しむようなものは、梔子豉湯がこれを改善するのに最適である。)

 この条文は、もともと厥陰病の状態ではないのですが、「気上撞心、心中疼熱」に一見、似ている状態のものを挙げて、その治療を間違えないように注意している条文です。従って、厥陰病の定義条文のあとに記載されていることは誠に適切な配置であると思われます。ところが、「一般の傷寒論」になりますと、この条文は「太陽病・中篇」の梔子豉湯類の条文群の所に移し変えられてしまっています。「一般の傷寒論」についての考察は、また後に行なうことにしましょう。
 煩熱 とは、熱を煩わしく感じることでしょうから、熱も甚だしくなっている筈です。従って、簡単に言えば、「煩」というのは「甚だしい」という意味にとって良いことになるでしょう。煩渇、煩躁についても同様です。
 胸中窒 とは、胸がつまる感じと単純に解釈してよいでしょう。



『康治本傷寒論解説』
第64条
【原文】  「発汗,若下之後,煩熱,胸中窒者,梔子豉湯主之.」

【和 訓】 発汗,若しくはこれを下して後,煩し熱あり,胸中窒するものは,梔子豉湯これを主る.

【訳文】  太陽病を発汗し,或いは陽明病を下して後,少陽の傷寒 (①寒熱脉証 弦 ②寒熱証 往来寒熱 ③緩緊脉証 緊 ④緩緊証 小便不利)となって,心煩或いは胸中窒する場合は,梔子豉湯でこれを治す.

【解説】 本条の“心煩”,“胸中窒”は梔子の特異症候であります.また厥陰病での心臓衰弱のために起こった“心中疼熱”とは異質であることに注目して下さい.

証構成
 範疇 胸熱緊病(少陽傷寒)
①寒熱脉証 弦
②寒熱証  往来寒熱
③緩緊脉証 緊
④緩緊証  小便不利
⑤特異症候
 イ心煩(梔子)
 ロ胸中窒(香豉)



『康治本傷寒論要略』
第64条 梔子豉湯
「發汗若下之後煩熱胸中窒者梔子豉湯主之。」
「汗を発し、若しくはこれを下して後、煩熱し、胸中塞がる者、梔子豉湯これを主る。」


 少陽病位に於ける温病の治療剤である。
 体中が熱っぽくて、胸中が窒って、気の通じない感じがある、という症状。


 梔子豉湯の症状では、63条厥陰病の症状に極めて似ている状態であるので、陽病と厥陰病を厳密に区別する必要があることを読者に注意するために置かれていると理解したい。

康治本傷寒 論の条文(全文)

2010年7月8日木曜日

康治本傷寒論 第六十三条 厥陰之為病,消渇,気上撞心,心中疼熱,飢而不欲食,食則吐,下之利不止。

『康治本傷寒論の研究』 
厥陰之為病、消渇、気上撞心、心中疼熱、飢而不欲食、食則吐、下之、利不止。

 [訳] 厥陰の病たる、消渇し、気は上って心を撞き、心中疼熱し、飢ゆれども食を欲せず、食すれば則ち吐し、これを下せば、利は止まず。


 消渇とは糖尿病、尿崩症のように煩渇多尿のことで、一般には裏熱によって生ずるが、ここでは裏寒が原因になっているのであるから、津液亡失して、あたかも裏熱による口渇と同じ症状を現わしていることをいう。
 気上撞心は気が腹部から上に向って進み、胸をつきあげること。『講義』三八五頁と『解説』四五四頁ではこの気は「虚寒の気」とか「寒邪の気」としているが、その必要はない。『入門』四○六頁に「気上撞心は心悸亢進の甚だしきもので、心臓部の圧迫絞扼感を指す」というのが良い。
 心中疼熱は胸中の疼痛、苦悶、熱感等をいう。気上撞心によって生じた症状である。厥陰病は裏寒と内寒が一緒になった場合であるから、腹部全体が虚寒の状態になり、気が逆上して心悸や心煩という所謂上熱下寒の状態になるのである。
 飢而不欲食は『講義』に「飢ゆとは飢餓の感を謂うに非ず。胃内の空虚なるを謂うなり」とあり、『解説』でも「腹には物が入っていないのに食欲がない」という。飢は漢和辞典では腹がへることとあるのに、飢餓感をいうのではないとするのは、生飲力が沈衰しているので空腹感は生じないというのであろうか。
 食則吐は飲食をとらなければ体力がつかないと考えて無理に食べると、胃寒と胃の衰弱のために胃はそれを受けつけず、すぐ吐いてしまうということである。宋板ではこの句は食則吐蚘となっていて、蚘(蛔虫)を吐くというのだが間違いであることは明らかである。
 下之利不止は、『弁正』では食べないから大便を出ないので、それを便秘と見誤って下剤をかけると内寒のために下利が止まらなくなるとしている。それとも空腹にならないのは消化管に物がつまっているからだと考えて下剤をかけてみるのであろうか。
 この条文は心中疼熱までが裏寒による症状、それ以下が内寒による症状を示している。そして前半で上熱下寒(裏寒外熱)の現象を論じているから、これが第六○条の手足厥逆を含み、後半で消化管が完全に無力となっていることを論じているから、これが下利清穀に相当していると見ることができるので、この条文は冒頭の厥陰之為病という句で示しているように、厥陰病の大綱を示したものと言うことができる。

『傷寒論再発掘』
63 厥陰之為病、消渇 気上撞心 心中疼熱、飢而不欲食 食則吐 下之 利不止。    (けっちんのやまいたる、しょうかつし きしんにじょうとうし しんちゅうとうねつし、うえてしょくをほっせず しょくすればすなわちとし これをくだせば りやまず。)
   (厥陰の病というのは、渇が甚だしくその上に多尿となり、高度の心悸亢進と胸中の疼痛や熱感を生じ、胃内が空虚になっていながら食を欲せず、もし無理に食すれば直ちに吐し、もし下したりすれば、下痢がやまなくなるようなものを言う。)

 この条文は「厥陰病」というものを定義している条文ですが、幾何学の定義のように厳密なものではなくむしろ、「厥陰病」というものの基本的な特徴をあげて、そのおおよその姿を示しているものです。
 消渇 とは、重症な糖尿病の時によく見られるような症状で、いくら水をのんでもなお渇がやまず、しかも多尿になることです。これはよほど体内水分が減少していることを意味しているのだと思われます。
 気上撞心 とは、「気」が下からあがってきて心臓を突きあげるのであると「原始傷寒論」の著者が考えていたようなことです。多分、現代の立場でこれを考えるならば、高度の心悸亢進の状態で、胸苦しい感じを伴うものを言うのであると思われます。
 心中疼熱 とは、胸中の疼痛や熱感などの苦悶の感じを言うのであると思われます。高度の心悸亢進に伴うものとみてよいでしょう。
 飢而不欲食 とは、胃内にものが入っていなければ普通は食を欲するのに、この場合は、多分、歪回復力も減退していて、その為、食を欲しない状態になっていることを言うのです。
 下之 利不止 とは、食べられないため大便もでないような状態であるのを、無理に排便させようとしますと、たとえば、下剤をかけたり浣腸したりしますと、それ以後、下痢が中々止まらなくなったりする状態を言っているのです。
 この条文は、末期に近くなった病態の基本的な特徴をいかにも良く表現していると感じます。筆者は、癌の末期の患者で、全身に浮腫があり数時間後には亡くなられた状態でありながら、口が渇いて口内に氷片を求めていた心悸亢進の甚だしい人を見た事がありますが、いかにも「消渇、気上撞心 心中疼熱」という感じがしました。また、同じく癌の末期の患者で、食欲が全くなくなってしまって、便が出ないというので、家族の人が浣腸をしてあげたところ、係後は下痢が中々改善しなくて困った人を見たことがあります。いかにも「飢而不欲食 下之 利不止」という感じがしたものでした。
 厥陰病というのは、このような事柄から考えてみますと、かなり末期に近い病態のことを言っているのだと推定されます。「原始傷寒論」では、厥陰病を改善する薬方は挙げられていません。それほど末期になった病態を必ず改善するというような薬方はある筈がないのですから、なくても当然のことと思われます。しかし、「一般の傷寒論」になりますと、厥陰病篇には色々な薬方が記載されるようになりました。しかし、それらの中で本当に、厥陰病に適する可能性のある薬方は四逆湯か通脈四逆湯位のもののように思われます。
 すなわち、色々と数多くの条文が書かれてはいますが、結局は、後人が補入したものが大部分であると思われます。そのつもりで参考にしていけばよいでしょう。


『康治本傷寒論解説』
第63条
【原文】  「厥陰之為病,消渇,気上撞心,心中疼熱,飢而不欲食,食則吐下之利不止.」

【和訓】 厥陰の病たる,消渇,気心に上撞し,心中疼熱,飢えて食を欲せず,食すればすなわちこれを吐下し,利やまず.

【訳文】  厥陰病とは,①寒熱脉証 沈遅 ②寒熱証 手足逆冷で心中疼熱のような半表半裏寒外証(⑤特異症候)がある場合をいう.
  条件 ①寒熱脉証  沈遅
      ②寒熱証   手足逆冷
      ⑤特異症候 半表半裏寒外証

【解説】 厥陰病は,三陰の終わるところで又治法の極まるところでもあります.本病位は,内臓部位にまで寒冷化が侵攻してきて,生きていくための最後の闘病場所であります.


『康治本傷寒論要略』
第63条 厥陰病
「厥陰之為病消渇気上撞心心中疼熱飢而不欲食食則吐下之利不止」
「厥陰の病たる、消渇し、気上がって心を撞き、心中疼熱し、飢ゆれども食を欲せず。食すれば則ち吐し、これを下せば利止まず」


                    裏熱
        ①口渇                   (63条)
                   津液不足
  
 消渇    ②水を多く飲み、小便少ない者(五苓散など)


        ③水を多く飲み、小便多い者(尿崩症、糖尿病等)



厥陰病は精気がほとんど尽きようとする病態、即ち、
1.体液がなぬなってしまうこと。
2.気が上にのぼって心臓衰弱となり、胸苦しくなること。
3.食べようともしないこと。



康治本傷寒 論の条文(全文)

2010年7月3日土曜日

康治本傷寒論 第六十二条 少陰病,脈沈者,宜四逆湯。

『康治本傷寒論の研究』 
少陰病、脈沈者、宜四逆湯
  [訳] 少陰病、脈の沈なる者は、四逆湯に宜し。

 宋板、康平本には脈沈者の次に急温之(急にこれを温めよ)の三字があるが、いずれにせよきわめて単純な条文であるから、その点に関して議論が展開されるのである。
①『入門』四○○頁では「本条は単に脈候を、而も但だ沈とのみ記載して、他の証候及び詳細なる脈候に及ばないのは、既に本篇に於て少陰病の脈証について度々詳細に論じられているから、それを冒頭の少陰病の三字に包含させているのである。だから脈も沈の他に微細、或いは濇であり、証は但だ寐んと欲するの他に、或いは自利して渇し、或いは咽痛、或いは悪寒して蜷し、或いは手足厥逆等はあり得べきであるが、主眼するところは裏虚である。即ち内臓諸臓器の機能が急に麻痺状態に陥ることであるから、一刻を争って之を賦活せねばならない」という。一応は筋道の通った理窟にはなっているが、具体的に症状を表現しない理由がなおわからない。しかも「少し遅るときは……死証は立ちどころに至る」というのも私は信用しない。
②『講義』三七九頁では「少陰病の急証にして、其の正証を倶備するに至らず、唯脈沈潜して殆ど触るべからざる者は、是れ四逆湯を以て急に温むべき証なるを明らかにするなり」というが、「少陰病の一激証にして」脈以外に何の症状も現わさない病態というものは本当にありうるものであろうか。私には考えられない。
③『入門』には「陳修園(清代の医学者)は所謂微を見て著を知るものは、患を未形に消すなりと言って、脈の沈なることよりして病が如何に発展せんとするかを、未発の間に推知して万全の策を講ずべきを説いている」とある。しかし脈沈のときだけこのような心構えを説く必要はなく、脈浮のとき第一条で如何に発展せんとするかを考察したように、何にでも言えることであり、これを前提としなければ傷寒論そのものが成立しない。
④以上の諸説はどれも納得できないので、私はこの条文は厥陰病の激症をのべた第六○条(通脈四逆湯)の後に位置しているから厥陰病の治療を論じたものと考えるのである。脈沈であるから第六○条の脈微欲絶ほどは悪化していないことがわかるし、少陰病の第五四条(附子湯)の脈沈と同じであるから、この条文は厥陰病の軽症を述べるべき筈のものであると思う。
 第四七条(白虎湯)で陽明裏位の激症(三陽合病)を詳細に示した時には、第四一条(白虎湯)はその軽症だから抽象的に簡単にしか表現されていない。これと同じ関係になっているからである。
 厥陰病を少陰病と表現した理由は第六○条の場合と同じである。

甘草二両炙、乾姜一両半、附子一枚生用去皮破八片。
右三味、以水三升煮、取一升二合、去滓、分温再服。

[訳]甘草二両炙る、乾姜一両半、附子一枚生用うるには皮を去り八片に破る。
   右の三味、水三升を以て煮て、一升二合を取り、滓を去り、分けて温めて再服す。

『入門』、『解説』、『講義』等で四逆湯と通脈四逆湯を少陰病の治剤とし、あるいは少陰病の治剤だが厥陰病にも用いるとする見解には賛成できない。まして『皇漢』のように四逆湯を太陰病の治剤とすることはとんでもない間違いである。これらは厥陰病の治剤なのである。


『傷寒論再発掘』
62 少陰病、脈沈者 宜四逆湯
   (しょういんびょう みゃくちんのもの しぎゃくとうによろし。)
   (少陰病で、脈が沈であるようなものは、これを改善するのに、四逆湯などを考慮しておくとよい。)

 この条文はあまりにも単純すぎる条文ですので、かえって、色々の推論がなされやすいようです(『康治本傷寒論の研究』長沢元夫著296項 参照)。筆者はあまり複雑に考えないようにしていくつもりです。
 少陰病 でとは、今までと同じ様に、全体的にみて、歪回復力(体力あるいは抵抗力)がかなり減退しているような状態でという意味でよいと思います。
 脈沈者 というのも、脈が沈んでいて、容易には触れ得ないような脈のことでいいと思います。撓骨動脈の上に指をのせて、深く圧してはじめて触れ得る脈のことです。
 四逆湯 という表現は「原始傷寒論」ではこの条文が初めてであり唯一です。大部分の条文では「主之」であり、第11条では「与」が3回使われており、第23条第28条第31条にそれぞれ1回ずつ使われています。また、「発之」という表現も第17条で使われていますが、この場合は「汗を発して改善する」という意味です。第28条での「与」の使われ方を見てみますと、「与えて様子を見ると良い」というような解釈が一番ぴったりしますので、その他の条文での「与」も同様な意味で良いかどうか考察してみましたが、やはり良いようです。「主之」は勿論、「最も適当である」という意味です。したがって「宜」という意味は、これらとは少しちがったものとして考察してみましょう。
 この条文を素直に読んだ場合、少陰病といっても、脈が沈であるだけでは一体どのような薬方を投与したらよいのか到底わかる筈がありません。したがって、その素直な印象の上に、この条文を解釈した方が良いと思われますのに、傷寒論研究者の諸先輩は少し「考えすぎ」の傾向があるように思われます。条文を字句だけから理解しようとすると、どうしても無理な解釈を導入するようなことにならざるを得なくなるのでしょう。
 そこで条文を「原始傷寒論」の全体像の中で考察していくことにしましょう。四逆湯の生薬配列が出ている条文はこれだけですので、これはどうしても必要欠くべからざる条文であるのですが、誠に奇妙なことには、四逆湯を基にして作られたと思われる通脈四逆湯の条文の方が先に出ているのです。しかも、その通脈四逆湯の条文(第60条)の前半部は四逆湯でも適応する可能性のある条文であり、後半部分は前半部分よりやや重症と思われる内容であるとともに、「通脈」の由来を示すと思われる部分(或利止、脈不出者)がある条文です。
 これらの事柄から筆者は、既に第13章16項でも触れておいた事ですが、以下のような事を推定しているわけです。
すなわち、伝来の条文群があった時代では、四逆湯に関して本来の条文は第60条の前半部分の基になったもの、すなわち、「下利清穀 手足厥逆 脈微欲絶 身反不悪寒 面赤色者 甘草乾姜附子湯主之」というようなものであったのだと推定したわけです。その後、このような病態の上に、更に腹痛や乾嘔や咽痛や利止脈不出のような症状が加わった者に対しては、四逆湯(甘草乾姜附子湯)に更に乾姜を追加した湯すなわち、通脈四逆湯(甘草乾姜附子乾姜湯)の方が効果かあったような臨床経験があったので、「或腹痛、或乾嘔、或利止脈不出者、甘草乾姜附子乾姜湯主之」というような条文が追加されていったのだと思われます。その後、「原始傷寒論」を初めて著作した人がこの伝来の条文を基にして、第60条のような通脈四逆湯の条文にしてしまったので、四逆湯についてのまともな条文がなくなってしまったわけです。それでは「原始傷寒論」として大きな欠陥が残りますので、四逆湯の生薬配列を持ったまともな条文を作る必要があって、この第62条がつくられたのだと推定されます。もし、そうだとすれば、この条文には具体的な症状を書く必要は全くないのであるということになり、このような不完全な条文の存在理由が明確にされたことになります。
 従って、「宜」という言葉の意味は、必ずしも四逆湯のみを指示する言葉とは限らないということになるでしょう。「四逆湯などを考慮しておくとよい」というような弱い指示の言葉に訳しておいた次第です。

62’ 甘草二両炙 乾姜一両半 附子一枚生用 去皮破八片 右三味 以水三升煮 取一升二合 去滓 分温再服。    (かんぞうにりょうあぶる、かんきょういちりょうはん ぶしいちまいしょうよう、かわをさりはっぺんにやぶる。みぎさんみ みずさんじょうをもってにていっしょうにごうをとり かすをさり わかちあたためてさいふくす。)

 この湯の形成過程は既に第13章16項で考察したごとくです。すなわち、甘草乾姜湯と乾姜附子湯との合方のような形式で創製されたのであると推定されます。甘草乾姜湯(第11条)は発汗後の異和状態の一種を改善する薬方であり、乾姜附子湯(第18条)は発汗後あるいは瀉下後の異和状態の一種を改善する薬方ですので、四逆湯は発汗後であれ瀉下後であれ、とにかく、体内水分が激減しているような病態を改善する作用がある筈ですので、条文の如き場合、当然考慮すべき薬方となるでしょう。

2010年7月1日木曜日

康治本傷寒論 第六十一条 少陰病,下利,欬而嘔,渇,心煩不得眠者,猪苓湯主之。

『康治本傷寒論の研究』 
少陰病、下利、欬、而嘔、渇、心煩、不得眠者、猪苓湯、主之。
  [訳] 少陰病、下利し、欬、而して嘔し、渇、心煩して、眠ることを得ざる者は、猪苓湯、これを主る。


 この条文の内容は少陰病であるという説と、冒頭に少陰病と書いてあるが実は陽明病であるという説にわかれる。
①陽明病であるという立場では、この下利は熱邪によって生じたものという。わが国では私のしらべたすべての書物がこの立場をとっている。『解説』四四六頁で「少陰病とあるけれども、真の少陰病ではなく、その病形は少陰病の玄武湯(真武湯)の証に似ていて、しかも裏寒によらずして、裏熱によるものである」というのがその例で、条文中の下利、欬、嘔という症状が第五九条(真武湯)にも表現されていることを「病形は玄名湯の証に似て」と言っているのである。
 そして下利については『解説』では「この下利は熱によるもので、下痢によって体液が失われて、欬して嘔し、また渇を訴え、胸苦しくて眠ることができないのである」という。体液が失われることによって欬以下の諸症状が引起されるというのならば、その症状を列記すればよいのに、どうして欬而喘、渇云々というような而の字をここに使用しているのであろうか。「この嘔は、せきにつれて嘔吐を催すのである」という。『講義』三七五頁でも「欬は主証にして、嘔は客証なり。即ち欬するに由て嘔するなり。此れ亦病熱上に鬱し、且つ水気動揺の致す所なり」という。しかし水気によって生じた症状であるならば欬、嘔とすれば充分であって、欬而嘔とする必要は全くない。欬するに由て嘔するという解釈は、嘔は体液が失われることによって生ずる症状ではないから、欬が原因になっているとしなければ説明がつかないからである。
 ところで体液が失われることによって各種の症状が生じている時に、利尿作用の強い猪苓湯を服用させることは理にかなったことであろうか。『講義』では「此の渇するは、邪熱、及び津液亡失、血液枯燥の致す所なり」というのだから、ますます利尿剤を投与することはできない筈である。
 この矛盾は「下痢によって体液が失われる」ことをこの条文の眼目としたことから生じたことは明らかである。そして而の字を用いる意義も納得できない。
 さらに言うならば、冒頭に少陰病と言いながら実は陽明病のことであるというような条文は少なくとも康治本には例がない。第六○条のように、厥陰病を少陰病と表現することはあっても、それには明確な理由がある。一見真武湯証に似ているからと言って、陽明病を少陰病と表現するのは非論理的であるから、以上の解釈は明らかに間違っている。
②少陰病であるという立場では、この下利は裏寒あるいは内寒によって生じたものとなる。ところが渇は裏熱によって生ずる症状であるから、この下利は内寒によって生じたものになる。
 欬は胸部に水分停滞することによって起ることは第五九条(真武湯)の場合と同じである。嘔は胃内停水があることによって起るのであるが、内寒によって下利しているときに嘔が起りにくいことは第五九条の第2段に「或いは下利せず嘔する者」とあることからもわかる。それにも拘らずこの条文のように嘔があるということは、別の原因があって胃内の停水を動かしていることになる。この場合は外熱であると思う。この条文に外熱がある証拠として心煩不得眠をあげることができる。
 このように解析すると而の子が別の意味をもって浮び上ってくる。即ち而の前にある下利と欬は寒邪による症状であるのに対し、而の後にある嘔、渇、心煩は熱邪(外熱と裏熱)による症状であることである。この異質のものを結びつけるための接続詞が而なのである。そしてこの状態を正確に表現すると少陰温病となるのであって、決っして陽明病であるのではない。『入門』三九八頁のように「本条は下利のために水分代謝障害を来し、それが原因で不眠を起し来るときの証治を論ずる。即ち本条に於て下利と心煩眠るを得ずとが主証であって、欬、嘔、渇は副証である」という解釈は文体を無視した勝手な解釈にすぎないことがわかる。
 『解説』に「ここには小便不利の症状を挙げていないけれども、これを省略したものか、あるいは脱落したものであろう」と述べているが、その原因は裏熱があるからであって、体液亡失によって小便不利するのではない。『弁正』に「今小便不利を言わざるは蓋しすでに下利を曰うときは則ち言わずして自明なり」とあるのは明らかに間違っている。


猪苓一両、沢瀉一両、茯苓一両、阿膠一両、滑石一両。
右五味、以水六升煮、取二升、去滓、内阿膠、烊盡、温服七合、日三服。

[訳]猪苓一両、沢瀉一両、茯苓一両、阿膠一両、滑石一両。
右の五味、水六升を以て煮て、二升を取り、滓を去り、阿膠を内れ、烊し尽して、七合を温服し、日に三服す。

 宋板、康平本には水四升となっていて、その下に先煮四物の句がある。
 猪苓は利尿、止瀉作用、沢瀉は利尿、止瀉、清熱作用、茯苓は利尿、止瀉、鎮静作用、阿膠は止血、鎮静、鎮咳、強壮作用、滑石は利尿、清熱作用がある。薬物の共力作用によって、猪苓湯は利尿、止瀉、鎮静、ち喜がい作用をもつことがわかる。
 この条文は少陰温病の状態で、第六○条の内寒と外熱に似た症状を呈しているので、厥陰病に類似するといせここに置いてあるのである。



『傷寒論再発掘』
60 少陰病、下利 欬而嘔 渇 心煩 不得眠者 猪苓湯主之。
   (しょういんびょう げり がいしておうし、かっし しんぱんし ねむるをえざるもの ちょれいとうこれをつかさどる。)
   (少陰病で、下利し、欬して更に嘔して、そのために渇し、心煩し、眠ることができないようなものは、猪苓湯がこれを改善するのに最適である。)

 少陰病 でと は、この場合も、全体的な状態としては、歪回復力(体力あるいは抵抗力など)が、かなり減退しているような状態でという意味です。「一般の傷寒論」では、陽明病篇にも猪苓湯についての条文が出ていますので、猪苓湯の適応病態を陽明病であると解釈する人達が多いようですが、これは明らかに間違いです。「原始傷寒論」にはそうなっていないからということも一つの理由にはなりますが、湯の生薬構成や湯の形成過程から考察してみても、陽明病に適応する湯であるとは到底言えないからでもあります。
 下利 とは、当然下痢のことであって胃腸管を通じて水分か失われていく病態と考えてよいでしょう。
 欬而嘔 とは、咳をしてその上に嘔吐もすることです。一般に、咳が非常に強い時は嘔吐も伴うものです。咳嗽も嘔吐も口から水分が体内に出ていく点では同じです。
 渇・心煩・不得眠  とは、もともと体内水分が欠乏気味であるために歪回復力が減退している状態であるのに、下痢や咳嗽や嘔吐で水分が更に失われれば、当然、口渇も生じてくるでしょうし、さらに進めば、精神的にも不安な状態となり眠ることも出来なくなってくる筈ですので、そういう病態を言っているのです。
 このような病態を改善するには、その主原因となっている下痢をおさえて、まず体内に水分をとどめて、血管内水分の欠乏も改善し、その結果として、利尿が出てくるように作用する薬方が必要は筈です。それが猪苓湯であるということになります。
 この第61条をあくまでも素直に読んでいけば、猪苓湯がはじめて形成された時の基本目標は、胃腸管を通じての水分の喪失を、利尿を通じて改善していくことになる、と推定し得る筈です。そして本条文に合致するような症例のあることは、たとえば『類聚方広義』の猪苓湯の項目の頭註の所で、古方の臨床の大家である、尾台榕堂先生が自信に満ちた断言をしていることからも、十分に窺われることです。
 少陰病と書いてあるから、猪苓湯は少陰病の時だけしか使えないと思ったなら、これは大変な間違いです。むしろ少陰病の時にも使えるのですから、それより歪回復力のある状態なら、まったく安全に使えると考えた方が良いのです。事実、猪苓湯は今日:少陰病以外での病態、たとえば陽明病での膀胱炎などにも大変に頻用されますが、これはこの湯の利尿促進作用の応用の一つであって、必ずしも湯が創製された時の意図ではなかったのである、と推測されます。



61’ 猪苓一両 沢瀉一両 茯苓一両 阿膠一両 滑石一両。
   右五味 以水六升煮 取二升 去滓 内阿膠 烊盡、温服七合、日三服
    (ちょれいいちりょう たくしゃいちりょう ぶくりょういちりょう あきょういちりょう かっせきいちりょう。
    みぎごみ みずろくしょうをもってにて、にしょうをとり かすをさり あきょうをいれ とかしつきしてななごうをおんぷくし、ひにさんぷくす。)

 この湯の形成過程は既に第13章15項において考察した如くです。すなわち猪苓湯の生薬配列は、猪苓沢瀉茯苓阿膠滑石であり、(白朮茯苓)基の白朮の代わりに、猪苓と沢瀉が来て、阿膠と滑石が追加されているわけです。(白朮茯苓)基には利尿作用があり、嘔吐や下痢など胃腸を通じて水分が失われていく病態を、利尿を通じて改善していくことが知られていたので、猪苓沢瀉茯苓の組み合わせも、これに類したことが期待されて形成されたのであろうと推定されます。阿膠には「血管内水分の減少の改善作用」があり、結局は「経腎臓排水作用」を持つことになりますので(第16章22項参照)、これに追加されたのであり、滑石にも利尿利用や止渇作用が期待されていたのだと推定されます(第13章第15項参照)。
 結局の所、この湯の形成過程は、猪苓沢瀉茯苓の三つの組の生薬の利尿作用の上に、阿膠と滑石のそれぞれの同様な利尿作用が追加されていったのである、ということになるでしょう。漢方薬の場合の利尿作用は西洋薬の場合のそれとは少し事情が異なっていて、まず一度は体内に水分をとどめて、やがて血管内にも水分が十分になって後に、結果として利尿がついてくるというような機序が主体となっているように思われます。したがって、電解質などにもあまり大きな変化はおこさず、安全なものが多いのに対して、西洋薬の利尿剤の場合は、体内水分が相対的に減少していても、たとえば、腎の尿細管細胞の水の再吸収に関する酵素作用を抑制するなどして、無理にも利尿をおこなってしまい、生体全体としては、かえって危険な状態にもなりかねません。従工て常に電解質の変化やその他のチェックをしながら投与しなければならないことになります。このような差は十分に考慮しておく必要がありそうです。